為一・画狂老人卍期の作品

1820年、61歳から北斎は、「為一(いいつ)」号を名乗っています。60代後半から70代前半までのわずかな期間、北斎は錦絵の制作に没頭し、「富嶽三十六景」をはじめ、彼の画業を代表する作品を多く残しました。その関心は、風景画だけでなく花鳥画や武者絵、歴史・古典の登場人物など、あらゆる対象に向けられています。
1834年、数々の富士山の名画を生み出してきた北斎は、その集大成となる絵本『富嶽百景』で「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」の号を初めて用い、巻末にはさらなる画技の向上への意欲を表明しています。最晩年の北斎は、風俗画としての浮世絵の枠組みにとらわれることなく、その画題は動植物などの自然や、宗教的なモチーフが増えていきました。死の間際まで画技を磨き続けることを望み、終生真の画家となることを追求しました。