葛飾北斎・かつしかほくさい(1760-1849)
葛飾北斎は、宝暦10年(1760)江戸本所割下水に生まれました。19歳で勝川春章(かつかわしゅんしょう)に弟子入りし、翌年には春朗と名乗り勝川派風の役者絵を発表。その後、和漢洋の絵画の各流各派を学び、様々なジャンルの浮世絵を手がけ、独自の画風を確立していきます。他の絵師に比べて遅咲きの絵師であり、北斎の名を不動のものとした「富嶽三十六景」を手がけたのは、70歳を過ぎてから。
森羅万象あらゆるものの真を描くことに執念を燃やし、老いてなおその制作意欲は衰えることなく、90年の生涯で、数多くの作品を残しました。1999年、米ライフ誌が選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に唯一選ばれた日本人であり、近年最も注目を集めている浮世絵師です。
北斎の作品で最も特徴的なのがその描線。彼の描く線はリズミカルで抑揚があり、その線の強弱こそが作品の「静」や「動」を表す重要な要素となっています。彫師には、その北斎の筆致の意図を理解し、忠実に彫りあげる高度な技術が要求されます。
北斎は、勝川春章に弟子入りして絵師を目指す前には、彫師として修業を積んだ経験があったそうです。自らの経験もあってのことか、彼の彫へのこだわりは並々ならぬものだったと言われています。浮世絵の出来栄えが彫師の腕にかかっていることを身をもって知っていたのでしょう。
春朗・宗理期
(20-45歳頃)
1778年、北斎は19歳で役者似顔絵の第一人者・勝川春章に入門し、翌年には「勝川春朗(かつかわしゅんろう)」を名乗っています。勝川派らしい役者絵や、美人画を中心に描いた「春朗期」は、北斎の浮世絵師としての活動のスタートにあたります。
師・勝川春章の死後、北斎は勝川派を去りました。その後、1794年頃に琳派の流れを汲む「俵屋宗理(たわらやそうり)」を襲名し、優美な画風の摺物や狂歌本の挿絵、また肉筆の美人画などを手掛けるようになります。1798年、「北斎辰政(ほくさいときまさ)」と改号した北斎は、独立した絵師として再出発しますが、引き続き宗理様式の画風で活動を続けます。1800年代初頭から再び錦絵の制作を始めた北斎は、西洋の透視遠近法に学んだ洋風風景画を多く手がけています。
「四世松本幸四郎の幡随院長兵衛」
「桜花に富士図」
「おしをくりはとうつうせんのづ」
葛飾北斎・戴斗期
(46-60歳頃)
1805年、46歳から北斎は「葛飾北斎」の画号を用いました。この頃の北斎は、曲亭馬琴(きょくていばきん)や柳亭種彦(りゅうていたねひこ)らの読本への挿絵に最も力を注いでいます。錦絵でも名所絵の揃物や戯画・おもちゃ絵を、また洗練された摺物や、妖艶な肉筆美人画などにも多彩な作例を残しています。
1810年ごろから、北斎は「載斗(たいと)」を号し、絵手本の制作に傾注するようになりました。近年注目の集まる『北斎漫画』はこの頃の作品です。『北斎漫画』は当時から大変な人気で、北斎没後まで刊行が続きました。
為一・画狂老人卍期
(61-90歳頃)
1820年、61歳から北斎は、「為一(いいつ)」号を名乗っています。60代後半から70代前半までのわずかな期間、北斎は錦絵の制作に没頭し、「富嶽三十六景」をはじめ、彼の画業を代表する作品を多く残しました。その関心は、風景画だけでなく花鳥画や武者絵、歴史・古典の登場人物など、あらゆる対象に向けられています。
1834年、数々の富士山の名画を生み出してきた北斎は、その集大成となる絵本『富嶽百景』で「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」の号を初めて用い、巻末にはさらなる画技の向上への意欲を表明しています。最晩年の北斎は、風俗画としての浮世絵の枠組みにとらわれることなく、その画題は動植物などの自然や、宗教的なモチーフが増えていきました。死の間際まで画技を磨き続けることを望み、終生真の画家となることを追求しました。
「神奈川沖浪裏」
「下野黒髪山きりふりの滝」
「飛越の堺つりはし」
「総州銚子」
「牡丹に蝶」
「群鶏」